2014年12月17日水曜日

月刊zero23書き下ろし「今月は内観がオススメ」





月刊zero23★11月号のコラム書き下ろしです。
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「自分は何のために生まれて来たんだろう」。
30代半ばの頃ふと頭をよぎって悩んだことがある。特別な才能や技術があるわけでもない私がフリーランスとしてやっていられるのは周りの方のおかげであって、私自身の実力ではない。

それは謙虚や謙遜といった言葉に当てはまる気持ちとは違い、自信のなさからくるものだった。
世間で活躍しているクリエイターのようなセンスは持っていないのだから、とにかく丁寧に仕事をしよう。1つ1つ手を抜かずにやろう。特別な能力がない私にできるのは、真面目に真剣にやること。それだけだ。

結果、趣味は?と聞かれても「ないですよ」と笑っていえるくらい仕事オンリーの毎日を過ごすことができ、冒頭の不安は消えていった。

無我夢中でがんばっていくだけでも人生は充実する。特に仕事での達成感は分かりやすいし、世間的評価も得られやすい。

けれど、社会的な役割の行いだけでは、表層的な過ごし方になってしまう場合もあるんだよね。
 
例えば、ひたすら働き続けたお父さんが定年退職を迎えたとたん熟年離婚を言い渡されたり、虚無感に教われたりするようなこと。

私が初めて「内観」を意識したのは、2006年、フラワーエッセンスのセミナーに参加したときだった。

人間が生きていく上で大切なのは、本質の願いや望みを知ること。魂の指針。生まれる前に決めてきたミッションとは何か。それを思い出す生き方とはー。


リズブルボー著『からだのこえをききなさい』の一節を引用すると、
「ほとんどの人は充分に意識的ではないために、ふだん自分が何を考えているのか、何を言っているのか、何をしているのかさえ意識していません。ただ機械的にそれを繰り返しているだけなのです。一日のうちで、話す前に行動する前に、そうすべきかどうか何回くらい自問していますか?」

内観をはじめるにあたって、フラワーエッセンスの開発者バッチ博士はこう書き記している。

「私たちが魂の声を聞くことは、手の届かないことでも、難しいことでもない。それが可能だと認めるだけで、シンプルに魂の声を聞くことができる。全宇宙の創造のカギは単純(シンプル)さなのだ。(フラワーエッセンスヒーリングーバッチの花療法 光の中へー 上野七歩子著)より」。

七歩子さんのセミナーでは直接自然の中に入っていくことが役に立つと語られた。

山や森へ出かけていく時間が持てないときにできる方法としては瞑想もある。瞑想がむずかしければ湯船に浸って静かに考えてみることでもいい。朝起きた時や寝る前に3回深呼吸するだけでもいい。

自分がいま生きているという状態を意識的に確認することで、パターン化していた自分の思考や感情に新しい風や光が注がれる。深い自分の内面が見えてくる。

2014年11月17日月曜日

親の鎖はほどけたか。その1




月刊zero23★10月号の書きおろしです。
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子どもは、生まれて初めて関わる大人が最初の世界になります。一般的には両親だけれど、場合によっては父親か母親のどちらかだったり祖父母や親戚、あるいは施設の先生たちというケースもあるかもしれません。いずれにしても人間の赤ちゃんは他の動物と違って、まったく一人で成長することはできないから、自活できるまでの間、大人の手助けが必要ですよね。

よほどの放任主義でない限り、血縁関係が濃い大人は熱が入ります。なんといったって赤ちゃんはとてつもなくかわいい存在だから、あれやこれやといろんなことを教えたくなるもの。最初はご飯の食べ方やトイレの使い方などごくごく基本的なことだけれど、だんだん自分の理想や自分と同じ思考を求めるようになっていく。

なぜこんなことを書いているかと言うと、親御さんの呪縛から抜け出せないご相談者が多いから。(根源をたどると、どんな悩みもほとんどはそこにたどり着くと言えるかもしれないくらいです)

大人の側は「子どもが立派な大人になるように。幸せな人生を送れるように」と願っているのだから呪縛といってしまうのはちょっと乱暴なのだけど、結果的に子ども側は30になっても40歳になっても、自分が結婚をしても子どもが生まれても、「親の期待を裏切ってはいけない」「親が望む生き方をしなければならない」というすり込みがあって、自分らしく生きることにブロックをかけているように感じます。

外し方がわからなくなっている状態として、1つは親への反発心が止まらないパターン。もう1つは知らず知らずのうちに親の言う通りにしているパターン。

現状の親子関係性が円満であっても、職場やサークルなど社会的な人間関係で苦しんでいるとき、生まれてすぐに触れた大人の気質や価値観がどうだったかを辿ってみるといいです。

すり込みが強いなーと感じる人は、「I am〜」のワークがおすすめ。何か行動を開始するとき、「私がこれを食べる」「私がこれを着る」「私が選ぶ」。どんな小さなことでもいいので、自分の意思で行っていることを、言葉で身体に伝えていきます。
「私は〜」「私が〜」という音が心地よくなって、自分の運命は自分で決めていいと思えてきたらしめたもの。

たいてい親と子どもでは個性が違うし、真逆の場合だってめずらしくありません。
せっかちな親の子どもがのんびり屋だったり、繊細な親の子どもが大胆だったり。

才能やクセ、肉体など部分的に似ることはあってもそっくりそのままにならないのは、子どもは常に新しい可能性を持ってこの世に降りて、それを活かす必要があるからです。
特に親子関係の場合、子どもは幼少期に得た価値観を越えて、自分ならではの世界へ羽ばたくことが人生の命題であるような気がします。

だから、
親孝行とは、親の言う通りの子どもになることではないのです。

それなのに、なぜ親はいくつになってもあれこれ指示を出してくるのか。
理由は1つ。子どもが本当に幸せそうにしている姿を見ていないから。

子どもが心から喜んで生きている姿を見せないことには、親はいつまで経っても不安なままです。
実践して見せていかないことには分からないものです。

親の望むスタイルでないと文句をつけてきたら、丁寧に自分の気持ちを伝えましょう。
聞く耳を持たない様子のときは、だんだんと諦めていくのを待ちましょう。

2014年10月7日火曜日

ザチョゼ・リンポチェ氏の「祝福と法話の会」に行ってきました。


 

 

月刊zero23☆2月号の書き下ろしです。

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 1月14日にチベットの高僧ザチョゼ・リンポチェ氏の法話に参加してきた。「リンポチェ」とはチベット密教ゲルク派の高僧の役称で、氏は1984年にダルマ大師の6回目の転生者として、ダライ・ラマ法王より東チベットにおける最高僧の承認を受けている方だ。

チベットのテホー地方に13の僧院と1万人の僧侶を抱え、ダライ・ラマ14世の70歳の誕生祝賀祭典の際には、約200人のリンポチェの中より指揮役を任命。1968年インドに生まれ、現在は米国アリゾナ・フェニックスで、自らが主催する財団『エマホ・ファウンデーション』をベースに西洋とチベット文化の融合にも尽力されているという。

今回はチャリティーツアーとして来日され、全国13ヵ所のうち山形もその1ヵ所となったのだ。ツアーのタイトルが『祝福と法話の会』となっていたので、てっきりありがたいお話を1〜2時間拝聴するのかと思っていたのだが、まずは参加者全員に「浄化」「祝福」「結界」の3つのイニシエーション(儀式)が施された。チベットでは高僧しか受けることのできないものだそうで、日本への友好の意を込めて行なってくださるという。しかも儀式は演台から会場にむかって一斉にするのではなく、氏自らが席をまわって一人ひとりに施された。

儀式が始まる前、「過去を振り返るのではなく、また未来がどうあって欲しいと望むのではなく、肉体はもちろん意識も今ここに置いてください」との説明があった。瞑想前に行なうグラウンディングのようなものだ。

今という時空間で心身を1つにし、リラックスすること。抑揚が穏やかなチベットのお経があげられ、半瞑想状態になった私は気持ちよすぎて、ぽちっと涙が出た。

法話では、「自分から生まれるポジティブとネガティブな気持ちを把握すること。それに自分がどう反応するかを知ること。他人と比較して自分は足りていないと不満に思わないこと。みじめさはやがて怒りに転化すること。世界の多くは貧困に苦しむ国であり、日本で暮らす私たちは恵まれた環境に生きていること。足りないというネガティブな気持ちが湧いてきたときは、自分が持っているものは何かという考え方に切り替えること。ポジティブなエネルギーは自分を助け、周囲の助けになること。」

とてもシンプルに、大切な内容が語られた。

代替医療のフラワーエッセンスもまさにポジティブとネガティブを知る内観の作業であり、創始者のバッチ博士はキリスト教を深く信仰していたが、真理はみなつながっているのだなーとつくづく思う。

もう1つ感じたのは、ザチョゼ・リンポチェ氏の明るさだった。法話は日本の流行語もまじえながら、自らが「あはは」と笑い声を発して語られる。会場は厳粛な空気というより、やわらかな光に包まれなごやかだった。

「本当の大物はオーラを隠せる」という誰かのコメントを思い出す。威圧感がないのだ。

私はこうしたエネルギー的なワークをしたときやパワースポットに行ったとき、身体にある反応がおきるのだが、今回も帰宅したらその状態になっていた。貴重な高僧パワーをいただきました。

2014年9月12日金曜日

手放すことを恐れない


2014.月刊zero23 7月号の書き下ろしです。





 5月は久しぶりにトークセッションのお仕事をいただいた。
山形法人会が主催する経営セミナーで、メイン講師はファッションデザイナーのドン小西氏。テレビや雑誌では辛口のファッションチェックでおなじみだが、実は5年間のウツと15億の借金で苦しむ時代があったという。

体験を元に書かれた本『逆境が男の「器」を磨く』では、テレビドラマ半沢直樹よろしくとばかりの壮絶なシーンも綴られており、地獄の時代を経たからこそ書ける人生のヒントがまとめられている。

 29歳で独立してからの数年は、「色の魔術師」「ニットの異端児」といった異名を取って国内外でコレクションを開催し、国内だけでも50店舗を展開していたそうだ(ちなみにドン小西氏デザインのスーツは『メンズニシムラ』さんで扱っていましたよ)。

会社が大きくなればデザイナーの仕事だけでなく、経営者の役割も増えていく。

—一人で仕事を抱え込み、周りを見る余裕がない状況に追い込まれていた。気がつけば僕が信用でき、ついてきてくれる社員は誰もいなかった。そんな会社が健全であるわけはない。(著書より抜粋)—

結果として巨額の借金を抱えることになるのだが、このとき最も恐ろしかったのは金額の大きさではなく、あらゆるものを失っていく状況の変化だったのではないだろうか。

銀行が手のひらを返して冷酷な態度になり、社員の数年に渡る裏切りも発覚し、家族が崩壊し、スーパーカーを手放し、こんなときに限って免許まで失い、飼っていた犬もいなくなる。正真正銘の一人。孤独の闇に放り出された感覚を体験をしたからこそ、本物の強さとやさしさを得られたのだと思う。 

—「平穏無事」を求める人は、きっと「落ちる」ことを心配しているのだろう。日本の企業を見ても、安定を求め、変化を嫌ったために失敗しているケースが多い。僕が「人生の難所は買ってでも求めろ」と言うのは、難所を経ることは、自分の限界と可能性を知ることにつながると信じているからだ。(著書より抜粋)—


「売り上げの前年比を参考にしていては、会社は成長しないですよ」
セミナーでも経営も個人の人生もチャレンジしていく大切さをお話されていた。

年齢を重ねていくと、考え方も生活パターンも壊すことが億劫になる。どんなに悪癖であっても、人は慣れている方法を使おうとするものだ。

いっときの覚悟をすることで、実はもっと心地良い楽しい世界があるはずなのに、扉の手前にいるときはそれをイメージすることが難しい。とはいえ、「結果が分からないから何もしない」というのは、自分の伸びしろを止めているようなもの。

手放す行為は勇気がいるけれど、思い切ってやってみた後は案外と風通しがよく、清々しい自信で満たされていくのではないだろうか。


2014年9月3日水曜日

山形新聞*日曜随想(12月分)


 2010.12.08
山形新聞で連載していた日曜随想。
1月からスタートして12月が最終回。
ちょうど10本書かせていただきました。

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「地球の暮らし方考」

「家の中で一番えらい人は?」と聞かれたら、
ご先祖様と答えるだろう。
子どもの頃、炊飯器の中でツヤツヤに炊きあがったご飯を
真ん中からすくってみたくて、
「もう食べていい?」と聞くのだが、
返事はいつも決まって
「ちょっと待って。仏壇にご飯あげてから」だった。

家に届いたおみやげの菓子折りも、
見たことのないきれいな包装紙の中身が気になって
「ねぇねぇ開けていい?」と聞くと、
返事は必ず「だめだめ。まずは仏壇にあげてから」。

いまでも実家に帰ると、
まずは仏壇に手を合わせる習慣がついている。
昔は、よその家に行ったときも、
最初に仏壇に挨拶したものだそうだ。

小学6年生の頃だったか、
家の本棚で『古事記』を見つけ夢中で読んだ。
人間がつくりだした神話とはいえ、
仏様のほかにものすごい数の神様がいること知り、
この世界は何かとてつもない存在によって
構成されていると思うようになった。

やがて大人になり、アニミズムという言葉を知る。
万物に霊魂や精霊が宿るという考え方だ。
以前「山形はまるごとパワースポット」というタイトルで
山形は八百万神を信仰できる土地と書いたが、
万物の依代は樹木や石にとどまらず、
あらゆる物事、現象も含む。
大きく捉えれば、机も車も食器も衣服も御神体なのだ。


先日、山形県立博物館の企画展
『縄文のキセキ』へ行って来た。
土偶が作られた理由は、
祈りやまつりごとの道具という説が主流だが、
詳しいことは分かっていないらしい。
エジプトのピラミッドやナスカの地上絵しかり、
この星は、未だ科学や医学で
解決できない状態や事柄がいっぱいだ。
原因不明の病気も少なくないし、
医者にNGと判断されても完治する人だっている。


人類が誕生以来、
人は生まれては死に土へ帰るを繰り返し、
さらに太古の昔から、
あらゆる生物や物質が
地球上で有になり無になってきた。
それらの遺伝子のわずかなひと粒が、
私の身体のどこかに
組み込まれていても不思議ではないし、
何十代も前のご先祖の想いが
周りのあちこちに浸透している可能性だってあるだろう。

長い歴史の中で、
すべてを内包し受け継がれてきた命の波動は、
とんでもなくパワフルで寛大で慈愛に満ちているはずだ。
誰もがぽんと存在しているのではなく、
みんながどこかでつながっている。
全体であり部分であると考えられたら、
支配も所有も搾取もいらない。
人や物を粗末に扱うことも、
戦争すらもなくなるのではないだろうか。

今年もまもなく終了だ。
これから私自身が心がけたいのは、
私という一個人の身体と精神を大切にすること。
それと同時に、地球人として、
一つの生命体としてどう在りたいかを内省すること。
計り知れない自然界や宇宙の摂理に対して、
畏敬の念と謙虚さを忘れないこと。


時々こんな物語を思いだす。
「おじいさんが庭に来た鳥に餌を与えたら、
やがてたくさんの鳥が集まるようになりました。
餌をもらえる鳥はよろこびましたが、
ある日おじいさんが亡くなったら、
鳥たちはすべて死んでしまいました」。

一方、アメリカの先住民たちは、
「どのようなことも、七代先の子どもたちを考えて決めよ」
という言葉を残している。
自分自身の喜びを精一杯追求しながらも、
一時の成功や富を求めることなく、
大局的に判断できる人間でいたい。


日々の中では、重曹、石けん、布ナプキンを使って
ネガティブな負荷を減らしたり、
地産地消の食生活、
誠意を持って作られた商品を選ぶなど、
出来る範囲のことしかできないけれど、
勇気と素直さと遊び心と感謝の気持ちで
環境活動に取り組んでいけたらと思う。


このコーナーの担当は今回が最終回。
順番が近づいてくるのが楽しみで、
あらためて自分自身の考えを振り返る機会にもなりました。
この一年間に心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。

山形新聞*日曜随想(11月分)


2010.12.07

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「家づくりを通して」

29歳からこの仕事でフリーランスになり、
40代に近づいた頃から人生後半のことが気になりだした。
3歳で先天性の病気が発症し、
「もしからしたら20歳までしか生きないのかも」
と心のどこかで思ってきた自分が、
あっという間に倍の年まで近づいてきて、
この先どうする?という問いかけが
潜在意識の中からわいてきたのかもしれない。

当時は仕事部屋と自宅を別々に賃貸していたので、
「家賃を払い続けるのなら買った方がいいのでは」
という友人たちのアドバイスや、
仕事とプライベートを
区別できない状況になってきたこともあり、
一ヵ所ですべて担える場所も欲しくなってきた。


女性の場合、どなたかの扶養家族になる
可能性もなくはないのだが、
どうにもそのイメージやときめきもわかず、
まずはマンションと中古物件を探し始めた。
けれど暮らし方にぴたりと合う場所と
間取りがなかなか見つからず、
新築案に切り替えることにしたのだが、
そこで迷ったのが環境負荷についてだ。

独身だから子どもに資産を残すわけでもなく、
ただ仕事と暮らしの効率をよくするために、
わざわざ自分専用の家を持つのはいかがなものか。
私が他界すれば、残った建物はただの巨大な粗大ゴミになる。
エコかエゴか。

しばらく悶々と悩んだ末、
「誰もがその人にしかない役割があり、
楽しみながらそれを全うするのが人間だとしたら、
自分の生活環境を整えたとしてもバチはあたらない(たぶん)」
という結論をだした。

そのかわり家づくりはできるだけ山形の自然に馴染む素材を選ぼう、
引っ越しのときのゴミの分別も丁寧にやろう、と心に決めて。


日頃から食べ物にかぎらず「地産地消おたく(?)」なので、
建築は地元の工務店さんに依頼。
構造材は県産を使いたいと話してみたところ、
所有している山の木がちょうどいい具合に乾燥しているからと、
なんと市内産の材木で作ってもらえることになった。

土地の購入も含めるとたくさんの予算はかけられない。
その工務店さんにとっては過去最小サイズの設計で、
壁はほぼ漆喰、天井と床は無垢材にしてもらう。
地鎮祭で供えるお菓子も、
県産の杉材にちなんだ名前のおせんべいを
地元メーカーから選ぶなど、
私なりの遊びも随所に取り入れながら、
初めての家づくりを満喫した。


着工と同時に住まいの整理も開始。
分別をテーマにしたものの、これがなかなか手強かった。
手帳1冊、整理箱1つとっても、
燃えるゴミや雑紙、雑貨品・小型廃家電類と
複合的な素材でできている。

かつてインタビューで使っていたカセットテープも
山ほど溜まっていて、
プラスチックのケースと埋め立てゴミのテープに延々と分けた。
これからは買うときにもっと注意して品物を選ばなければと、
改めて痛感。

たった一人の人間だけでも、
驚くほど多くの物質を所有して生きている。
不要になったからと地中に埋めてしまって大丈夫なのだろうか。
原子力発電から出る高レベル放射性廃棄物しかり、
私のゴミしかり、地球の地下はどうなっていくのだろう。
いろんなことが頭を巡る。


数年前、ある食の会に招かれて
長野県小諸市でお話する機会があった。
ここでは昭和54年頃から各家庭で
堆肥化用に生ゴミを分別して市が回収し、
さらにゴミを17分別して資源化しているというのだから、
声を上げて驚いた。
誤字だと思われてはいけないのでもう一度ひらがなで書くが、
「じゅうなな分別」である。
「混乱しませんか」と聞くと、
「慣れですね」と、実にさらりとした口調の答えが返ってきた。
なんてかっこいいのでしょう。

この10月で自分の家に住みはじめて丸4年。
物との付き合い方、生き方、環境のこと、
家づくりを通して得た気づきをもう一度振り返って、
大切に暮らしていきたいと思う。

山形新聞*日曜随想(10月分)




 2010.11.01

画像は名月荘のお蔵で行なった
カンボジアを紹介する
「アンコールカフェ」の画像。
手前がテブットさんです。
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「幸せの在り方」

去年の暮れ、友人たちとカンボジアへ旅行に行った。
世界遺産のアンコールワットや、
巨大な観世音菩薩の四面像がある
アンコールトムなどの遺跡はどこも見応え十分。

時の王によって信仰の対象が変わったため、
ヒンズー教と仏教が融合した独特の宇宙観が形成され、
人々の歴史や神話をモチーフにした壁画が
ありとあらゆるところに彫られている。

ひと通りすべて鑑賞しようと思ったら、おそらく数日かかるだろう。

その大きさ、数の多さだけでも驚くし、
「いったいどこから作ったの?どうやって作ったの?」と、
小学生のような質問を何度も
ガイドさんになげかけ笑われるほどだった。
人間が持つ気力や技術は本当にすばらしい。

出発するまで、私が知っていたカンボジアのキーワードは
「地雷」と「貧困」しかなかったが、
かつてはフランスの領土で
「東洋のパリ」と称された国だったという。

すべてがめちゃくちゃになった原因は
1975年から始まったポル・ポト政権だ。
僧侶、医者、教師、芸術家といった
技術を持つ者から始まりやがては無差別に、
約二百万人から三百万人近く
(正確な数字は分かっていない)が虐殺された。
知識を持たない子ども達が優遇され、
医者や兵士に仕立てられ、悪魔の指令に従っていたそうだ。


この旅行のきっかけは、
20年近くカンボジアの支援活動を行なっている
国際ボランティアセンター山形(通称IVY)とのご縁だった。

そして9月中旬、
現地でお世話になったツアーガイドのテブットさんが、
IVYの招待ではるばる日本へやってきた。

到着後は東京タワーとビックサイトを見学し、
山形では蔵王の露天風呂を初体験。

私も久しぶりの再会となり、一緒に食事にでかけた。
お店に行く途中、自動販売機を見つけたテブットさんが、
「おつりが間違ってでてきた時はどうするの?」と聞いてきた。
「おつり?おつりは間違えないよ。
ごくたまに別のジューズが出てくることがあるけど、
たぶん99%間違えないと思う」と答えると、
「ふーん」と不思議そうな顔をする。
「日本の会社は定期的にメンテナンスをしているから、故障が少ないのよ」
と説明すると納得したようだった。

その翌日は『アンコールナイト』と題したトークイベントも開催。
テブッドさんがカンボジアの魅力などを流暢な日本語で紹介し、
私も司会と聞き手役で参加させていただいた。
「日本を見た感想は?」と質問すると、
「第二次世界大戦から60年ちょっとしか経っていないのに、
こんなに高い建物がたくさんあって、すごい。びっくりした」
という答えが返ってきた。

ポル・ポト政権後から約30年が経ち、
いま首都プノンペンには洗練されたホテルや
レストランもたくさんできたが、
未だ地方は医療や設備が行き届かず、
貧困の中で暮らしている人々がたくさんいる。

一方日本は広島と長崎への原爆投下後、
約20年で東京オリンピックを開催し、
その6年後にはアジア初の万博博覧会を行なった。
それぞれの国がおかれた環境に違いがあるとはいえ、
熱心さ、丁寧さ、正確性、気骨さなど、
日本民族特有のエネルギーがあったからとも言えるだろう。

ものすごいスピードで成し得た経済大国、
消費大国というポジション。
けれど、これが理想的な再興のかたちだとは思ってほしくない。

カンボジアの田舎で見た、
小さい子どもが裸ん坊で走りまわり、
一般の道を牛も歩き、
隣の家の人が今日は何をしているのか何となくわかっちゃう暮らし。

お金を欲しがる子どもたちの目は必死だけれど、
そこにズルさや暗さはなく、
大人も純朴な笑顔の人たちが多かった。

おつりを間違えない自動販売機を作ること以上に、
本当に間違えてはいけないことー。
28歳のテブットさんにうまく説明はできなかったけど、
日本とは違うアプローチで、幸せの在り方を見つけてほしい。
本当に勝手な思いだけれど。

山形新聞*日曜随想(7月分)


2010.08.23


「雑草を抜きながら」

2006年に家を建てて以来、
我が家の敷地は見事な「雑草園」になっている。
住み始めた当初は
「勝手にいろんな植物が生えてきて、
何もしなくても緑でいっぱいになったなぁ」
とよろこんでいのだが、
実家の両親や弟から
「何で草取りしないの?」
「もう少しきれいにしたら」と、
怒られるように言われて気がついた。
草花と雑草は違うらしい。

りっぱなバラとは言わないまでも、
あるいは家庭菜園が無理ならば、せめてハーブが望ましく、
オオバコやスギナ、たんぽぽなどは草取りの対象だと言うのだ。
なぜ?同じ命なのになあと思う。
雑草と呼ばれる植物たちにもそれぞれ名前がついているのだろうし、
中には可愛らしい花をつけるものもある。

近頃「生物多様性」という言葉も聞こえるようになり、
これは地球全体には様々な生物が存在し、
それによって生態系のバランスが取れていることを指している。
あらゆる生命の大切さを願う響きがあって、とても共感できる言葉だ。

そんな私を見て弟が
「姉貴が環境問題に関心があって、
どんな生き物も大事にしたい気持ちは、身内のオレはよく分かる。
だけどさ、家の外観って住んでいる人の顔なんだよ。
世間はあれをだらしないとしか見ないんだよ」
残念な姉と言いたげに首を振る弟の同情に応えるべく、
ちまちまと手入れを始めるようになった。

職業上しかたない場合は別として、
一個人の庭なら地球に除草剤をまくことは避けたいもの。
一本一本素手で抜き始めると視界がぐんと地面に近くなり、
見るとダンゴムシや派手な色彩の毛虫、
アリなど小さな命の世界がそこにあった。

ぼくらはみんな生きている~♪と、
「手のひらを太陽に」のフレーズが自然と口からついて出る。
やなせたかし氏の作詩で、いろんな虫だって、
みんなみんな友達なんだという歌だ。
全部の歌詞を知りたくなって調べてみると、
なんと3番に登場するのは
スズメとイナゴとカゲロウだった。
かなしいかな、
一部の山形県民にとってイナゴは友達ではなく食料だ・・・。

食べる行為が加わると、命の話はいささか複雑になってくる。
蚊も殺せないような人が牛肉が大好きだったり、
ヘビはきらいだけどウナギは好物だとか、
人によって「尊さの基準」はさまざまだ。


私なりの折り合いのつけ方は、
食べ物になる動植物は自分の体にとっての適量を吟味して、
無駄にせず、命のリレーとしていただく意識を持つこと。
調理をするときから「ありがとう」の気持ちを持つことだ。
忙しいときは間に合わせのものを買うこともあるし、
できる範囲ではあるけれど。


10代の頃、体が弱くて内向的だったため、
いじめほどではないが仲間はずれになることが度々あった。
病気の回復とともに、反動が出たのか逆の立場をとったこともある。
こうした体験で得た気付きは、
無視されるのもするのも、認められないことも認めないことも、
悲しく辛い感情が心に残るということだ。

それは対人間だけでなく、多くの生物においても同様だ。
微生物に始まって両生類も爬虫類も、
また虫には虫の、鳥には鳥の役割や人生(生き様?)がある。
むやみに毛嫌いし、殺す行為は、
宇宙の倫理に対する謙虚さが足りない気がして胸が痛む。
人間界だけの都合を優先させれば、
必ずどこかで声なき物達が犠牲になり、
民家に熊が現れるような出来事も起きてくる。

原因と結果の法則は地球の外にでることはない。
すべてこの星で解決していかなければならないのだ。

生物多様性とは、あらゆる種族保存の維持だけではなく、
進化と絶滅のプロセスが健全に進むための取り組みとも解釈できる。
人間が進化と絶滅のどちらに分類されるのかは分からないし、
最終的には地球自体が決めるはず。

「地球にやさしく」というキャッチフレーズが使われるけれど、
実際は人間を受け入れている「地球がやさしい」のではないだろうか。

山形新聞*日曜随想(6月分)



2010.07.18
山形新聞掲載「日曜随想」の書き下ろしです。

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「企画にとって大切なものはー。」

「浅倉さんはどんな仕事をしているのですか?」。
名刺に印刷されたプランナーという文字を見て、
そう聞かれることがある。

コマーシャルや情報誌のアイデアを考えることもあれば、
ホームページのコンテンツ、
店舗の広告や運営方法を
オーナーさんと一緒にあれこれ練ったりと、
プランニングの分野は幅が広い。

企画をテーマにセミナーでお話するときのキーワードは、
「ビジョン」と「ミッション」だ。
ビジョンは将来の構想や展望。ミッションは使命や役割。

企画の基本として一般的に言われる「5W2H」は、
WHO(誰が)、WHAT(何を)、WHEN(いつ)、WHERE(どこで)、
WHY(なぜ)、HOW(どうやって)、HOW MUCH(予算)。

まずは決まっているものから当てはめて、
足りない部分の情報を集めていく。
途中で当初の予定が変更になることもあれば、
進路を変える方が
よりいい方向に進むと分かることもあり、
柔軟な切り替えも必要だ。

企画はかかわる人が多いほど、
さまざまな意見が飛び交い、錯綜もする。
プランナーとしては、このごちゃごちゃした状態も楽しく、
泣いたり落ち込んだり救われたりするドラマの中で
少しずつ物ごとが整理され、
目指す形に向う過程に感動がある。
そうしてワクワクするひらめきも生まれてくる。

私個人の経験では、
悩んで迷ってもがいている時に
手綱となるのが「WHY(なぜ)」だ。

イベントやキャンペーンなどでは、
より新しいもの、より奇をてらった
「WHAT(何を)」が要求されるけれど、
まずは「どうして行なうのか」に軸をおく。
これがしっかりしていれば、後々ブレる幅が少なくなる。

催し物であれば、
「色々な人に知ってもらいたい」
「たくさん買ってもらって今より利益を上げたい」
といったビジョンがでてくるかもしれない。
でもこれだけでは自己満足で終わってしまう。
個人的な得に対して、
人はわざわざ時間やお金を使ってくれたりしないから。

そこに添えるのが、もう一つのミッションだ。
大げさなお題目などでなくていい。
なぜ知ってもらいたいのか、なぜ利益を上げたいのか。
社会とどう関わりたいのか、どんなことで役に立ちたいのか。

働くという言葉は、
傍らを楽にすると教えてもらったことがある。
「自分が」ではなく、「傍らが」なのだ。

あまり大きな声ではいえないけれど、
広告やマスコミ業界の中には、口が悪い人もいる。
「消費者にいかに買わせるか」
「ターゲットにいかに興味を持たせるか」。
こんな言葉のやりとりが普通だし、かつては私もそうだった。

中には競合商品や競合相手をけなす人、
「客の意識が低いからダメなんです。まずはレベルを上げてやらないと」
などとおっしゃる方もいる。
大事なことかもしれないけれど、
内心どんだけエラいんですかぁと思ってしまう。 

例えばある店内で、「これを客に買わせるためにはー」
などと相談している社員を見たら、
あまりいい気持ちはしないだろう。
なんだか単なる戦略に乗せられるみたいで
買う気持ちもなくなってしまう。

それで、あるときから打ち合せ中の話し方を変えてみた。
「集客率を上げるために」ではなく、
「お客様に来ていただくために」
「もっと喜んでいただくために」。
「読者に読ませる」ではなく、
「手にしてもらえるように」。
例え裏側にいるときでも、接客しているとき、
大切な人と話しをしているときと同じ言葉遣いを意識した。

言霊の力は大きいと思う。
あくまで自分の実感だが、
目先のことでピリピリしがちな会議の場が、
もっと深く傍らに思いを馳せられる空気になった。
企画は生ものだし、目に見えないクリエイティブな作業だ。

良い言葉を発すれば吉を招き、
悪い言葉が凶を呼び込むとすれば、
たとえ企画内容が華やかでなかったとしても、
言霊でやりとりされて出来上がったものには
丁寧な念いが詰め込まれる。
必要な人へ必要なタイミングで、
ちゃんと届いていくのではないだろうか。

山形新聞*日曜随想(5月分)



 2010.06.13
山形新聞に掲載された日曜随想の書き下ろしです。


「山形でエコ活動」

先月、山形県環境技術専門学校が開校した。
NPO法人ビルトグリーンジャパンが国の
緊急人材育成支援事業の助成を受けて運営しており、
環境分野の訓練コースは全国でも例がないそうだ。
カリキュラムは自然エネルギーやバイオ農業、廃棄物など幅広く、
私も講師の一人としてお話させていただくことになった。

私の担当はスローフードや企画の立て方について。
第一回目の講義では食に関することのほか、
日常生活で行なっている小さな実践についていくつか紹介をした。


環境資源の視点で暮らしを見回すと、
実にたくさんの石油製品に囲まれていることが分かる。
日用品を原油で想像したら、家の中は相当石油まみれの状態で、
あっぷあっぷと溺れてしまうのではないだろうか。
あと40年か50年で枯渇すると言われている石油。
代替エネルギーの研究も進んでいるけれど、
石油から上手にシフトしていけるかどうかは分からない。
というわけで、今あるものをできるだけ細く長く使っていく工夫も必要だ。
まずは台所、トイレ、お風呂など
パートごとに分かれて市販されている合成洗剤をやめてみたこと。

廃油などから作られている石けん、重曹、クエン酸を袋で買い、
用途別に空き瓶などに移し替えて使っている。
台所やお風呂の油分は重曹、トイレなど
アルカリ性は酸性のクエン酸と、汚れに合わせて使い分け、
これによって家の中にあったピンクやブルーの
プラスチック容器が一切なくなった。
見た目のインテリアもすっきりとして気持ちいい。

重曹はお風呂にひとつかみ入れると
重曹泉のようになってぽかぽかと温まるし、
お菓子のふくらし粉や胃薬に使われているものだから、
小さなお子さんがいる家庭では安全面でもおすすめだ。

そのほか、マイ箸、マイバック、
ペットボトルもできるだけやめてマイボトル(水筒)。
うっかり忘れてしまうことも多いのだけど、
外食をするときはマイオシボリを持参して、
使い捨てのナプキンは使わないようにした。
 
そしてもう一つが布ナプキンだ。
こちらは女性の生理用で、
昔の赤ちゃんのおむつのように洗って使う。
私がスタートしたのは2006年の夏。
ある媒体の取材がきっかけで、
無漂白のネル生地を使って手作りしてみたら、
これがなかなか楽しくて。
指導してくださった方は
ヨモギやタマネギの皮を使った草木染めもされており、
色もきれいだし殺菌作用もあるそうだ。

本や資料を調べてみると、
一般的な綿の栽培は食べ物と違い大量の農薬が使われていること、
生理用品として製造する段階でもさまざまな加工処理があること、
女性にとってデリケートな時期に使用するため
健康面の負担が考えられることなどがあげられている。

一方、布ナプキンも「わざわざ洗うなんて面倒くさい」
という意見もあるかと思うが、
快適な使い心地は、もう何にもかえがたい。
ゴミを捨てるストレスから開放され、
かつての違和感や不快感がなくなったし、
手洗いすることで自分の状態がわかり、
この期間がいとおしいとすら感じられるようになってきた。
体験談の中には、
婦人科系の病気に関する症状が減ったという人も多く、
ケミカルなナプキンと併用しながらでも、
試してみる価値はあると思う。


環境活動として暮らしの工夫を語ると、
「いまさらやっても」、「マイなんとかは意味がない」と
アンチテーゼを唱える人もおられるが、
一回使っただけで捨てることが当たり前になっていくのは
(たとえそれが小さな物であったとしても)、
人としてちょっと寂しい。
できるだけ大切に使いきって、
最後はありがとうの気持ちで処分することを、
ごくごく普通の感覚として持っていたいと思う。

山形市内は7月1日からもやせるゴミの有料化がスタートする。
この機会に布ナプキンを取り入れて、
月に1度のエコ活動をしてみませんか。 

山形新聞*日曜随想(4月分)



 2010.04.12
山形新聞の日曜随想4月4日掲載した随想です。


「山形で学んだこと」 

勤めていた広告の制作会社が倒産したことをきっかけに独立し、
約15年になる。
入社当時はコピーライターの肩書きをもらい、
最初に担当したのがシニア向け情報誌の編集だった。

60歳~80歳代の方のインタビューもあり、
思えば25,6歳の若輩者に、ご自分の貴重な人生観を語ってくださり、
今読み返したら間違いなく赤面するヘタッピな文章を
了解してくださった方々には、本当に感謝するばかりだ。 

現在は情報誌の編集、取材、お店や企業の販売促進について
アイデアを提案しているほか、
4年ほど前からはコミュニティラジオのパーソナリティとして、
毎週土曜日に生放送の番組を担当させてもらっている。

毎回2~3名のゲストをお迎えし、
山形のさまざまな活動をうかがっているので、
私にとっても新しい発見がある3時間だ。
正確な数字は出せないけれど、
企画の打ち合せも含めると毎月20~30名位の方とお会いしているだろうか。
時間が不規則な仕事なので、
自己啓発になるようなセミナーに出かける機会も
ほとんどないまま過ごしてきたが、
私は山形の日常を生きる人達から、あらゆる教えを頂戴し、
人から人へのご縁もいただいてきた。


先月、山形県立山辺高等学校のご依頼で、
リーダーのあり方と企画の立て方について講座を行なった。
参加者は生徒会執行部とホームルーム委員を務める生徒さんたち。
私が高校生の頃なんて、こんなにしっかりしていなかった気がするなぁ、
と感心しながら黒板の前に立つ。

広告の仕事ではディレクターやプロデューサーといった役割があり、
求められるのがリーダーシップ性だ。
まずは自分の中に持っている資質を見つけてもらえるよう、
理想像を書き出して発表してもらった。
「自分の意見を言える人」、「相手の話を聞ける人」、「明るい人」など、
この先社会に出たとき、恋愛をしたとき、母親になったときにも役立つ答えがいくつも出てきた。

私がこれまで出会った方々から学んだ要素を挙げてみると、
「過剰な自我がなく寛大な人」、
「臨機応変に対応ながら、焦点がブレずに進める人」、
「細やかに気配りしつつ、状況を俯瞰で見ることができる人」。
そして「"愛"があるかを物差しにできる人」
(去年の大河ドラマ「天知人」以来県内各地に愛の文字が登場し、
おかげでこのストレートな言葉を口にする気恥ずかしさもなくなりました)。

すべての要素を満たすことはむずかしいけれど、
ピュアな情熱があれば、人は力を差し出してくれるように思う。
人の上に立つときに限らず、人間として生きていく上で、
リーダーの感覚はあらゆる場面で役に立つ。

続いて企画の立て方では、学校祭をテーマに、
グループに分かれて会議をしてもらった。
プロであっても温泉のごとくイベントのネタが湧いてくるのは稀で、
「うーん」とうなったまま時間が過ぎていくことはよくある。
大切なのは、煮詰まる時間を恐れないこと。自分や周りを責めないこと。
軽やかに気分転換をして、ひらめきを信じること。

講座の途中で、私も一つひらめきがあった。
何に使うか決めないまま、家から用意していった麻の紐があり、
それを席の列ごとに1本ずつ渡すことにした。
一番前に座っている人が端を持ち、
途中に座っている人は紐を後ろの席へ送っていく。
もう一方の端を一番後ろの人が受けとる。
長さが足りないからみんなが立って近くへ集まり、
端と端を持つことができた。

学校祭の目的はみんなが一つになることだ。
自ら席を立って、思いを近くの人に手渡して、
知らない人同士も触れ合っていける機会を作り出すのがリーダーの役目。

最後に、紐を持った人同士が向き合って、
「こんにちは」「ありがとう」と声にだして言ってもらった。
くすぐったいような笑いがおきて、あたたかな空気が教室に流れた。

紐を手渡しながら心がつながっていく光景を見ることができ、
私自身もいい時間をいただいた。


山辺高校のみなさん、お声がけくださった沼澤先生、
ありがとうございました。

山形新聞*日曜随想(2月分)



2010.03.16
山形新聞2月24日に掲載された日曜随想です。


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「山形はまるごとパワースポット」


久しぶりに東京へ出る機会があった。
新幹線の窓から眺める景色が、山並みから雑居ビルへと変わっていく。
山形ではどこを見ても大空をバックに樹々があって、
そこかしこに川が流れ、季節の香りがする風が吹いている。

自然に囲まれた暮らしに慣れているせいか、
人間が作ったもので埋めつくされている東京の街は、
映画か舞台のセットのように見えた。
若い頃はその造形が刺激的で、大好きだったのになぁ。
年を重ねると食指が変わるように、住む場所の好みも変化するものだ。


以前、農業生産者の方が集まる会で講演をさせていただいたときのこと。
会場が庄内だったこともあり、
「霊験あらたかな出羽三山の裾野で育つ農作物ですから、
 すばらしくないわけがないです」と、
そんな内容も交えてお話したところ、懇親会の席で、
「浅倉さん、さっきの話の中でね、
 山形は地場のエネルギーが高いって言ったでしょう。
 その感覚、なんとなく分かりますよ。」
と声をかけてくださる方がいた。

「農業ってね、どんなに技術を駆使しても、最後は天候が司る。
神のみぞ知るということ。
だから節目節目にお祭りをして、祈りを捧げるんです」。

農業や医療といった命の営みにかかわる仕事をする人は、
神の采配にゆだねる場面が多いだろうし、
その謙虚な念いが土地や空間のパワーにつながっていくように思う。

山形に帰ってきて良かったと感じるのは、
あちこちに手を合わせる場所があることだ。
県内各地に点在する最上三十三観音や、慈覚大使が建立した宝珠山立石寺も好きだし
(峯の浦遺跡などがある奥山寺もおすすめです)、
置賜地方で数多く見つかっている草木塔(草や木に感謝し魂を供養する塔)、
朝日町にいたっては、おそらく世界に類のない(?)空気神社まで祀ってある。

「山形はもう一つの日本」というキーワードで
インターネット検索をしていただくと、
2008年に掲載された山形新聞の記事がアップされている。
パリで開かれた経済協力開発機構(OECD)の観光委員会で、
日本政府代表は山形県の自然崇拝や即身仏といった「精神文化」を
観光振興の一つとして紹介したのだそうだ。


前回の随想で、病気のためにしぶしぶ帰省したと書いたけれど、
もしもあのまま何ごともなく東京で暮らしていたら、
未熟な私はお金や名誉がある人に心酔し、
そうあることが人生の幸せや成功、到達点と解釈して、
物欲主義の人生で終わっていたかもしれない。

もちろん山形にいるとはいえ、先ばかり見て焦ったり、
失敗して「すみません」と言いながらも、
心の中では「でも私だけが悪いんじゃないもの」と言い訳したり、
あるいは必要以上に自分を卑下して責めたりと、
感情の振り子が大きく揺れる日もある。

そんな不調和な心を持て余したとき、
山や木、花、石、川、土などに目をむけていると、
いつしか身体がほぐれ、穏やかなリズムが戻ってくるのだ。
私の場合は、六本木のビルや新宿の夜景に合掌しても、
この安心感は得られなかっただろう。


自然界の生命体に偉大さを感じるのは、他者と比較しない存在だから。
ちょっと例えが変ですが、
羽黒山が湯殿山と月山より標高が低いからといってひがんだりしないし、
川西町のダリアと飯豊町のユリが
「私の方がきれいよ」と対抗意識を燃やしたりはしない。

それぞれが、ただただ生きて、地球に必要な役割を果たしている。
もしもなんらかの影響で淘汰されることがあったとしても、
周りを恨んだりもしないだろう。
そしてそこには、自然の中に宿る八百萬神がいて、
励ましたり癒したりしてくれる。
自然崇拝は心を納めればいいのだから、お財布にもやさしくてありがたい。

ここ数年、パワースポットという言葉もよく聞くようになり、
伊勢神宮や出雲大社、屋久島といった場所も一度は行ってみたいが、
山形は住んでいるだけでエネルギーチャージができる土地だと思うのだ。

山形新聞*日曜随想(1月分)



2010.03.02
山形新聞の日曜朝刊に掲載している「日曜随想」。
山形新聞さんより転載の了解が届きましたので、
こちらでもご紹介させていただきます。

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「山形に恩返し」

このコーナーの初回は
自己紹介を含めた内容にしようかなと思いながら、
先週の日曜日、須貝智郎さんの随想を拝読したら、
胆道の難病を患った方のことを書かれていた。

私も同種の先天性胆道拡張症または
総胆管のう腫と言われる病気で生まれてきた。
併発した腸閉塞なども含め、
小学1年生から6年生まで受けた手術は5回。
おかげで、めっぽう痛みに強い性格になり、
ちょっとの腹痛などでは動揺しないですんでいる。
  
この病気は術後が良好でも、
5年から10年後に癌化したり結石になる特徴があるのだが、
当時の医師はその警告をしてくれていたのか、
ただ「20歳まで何もなければ大丈夫でしょう。」
と言われた言葉だけが胸のどこかにありながら10代を過ごした。
無事に成人式を迎えてほっとしたものの、
精神年齢が低かったせいか、22歳で肝内結石になってしまった。
病院でちらっと見てしまった自分のカルテに「腫瘍」の文字があり、
このときはさすがにちょっと落ち込んだ。

再発した原因は自分にもあったと思う。
のど元過ぎれば・・・で、体調管理の意識も知識もないまま、
スナック菓子が欠かせない高校時代を過ごして東京へ進学。
山形にないファーストフード店や都会の居酒屋、当時流行ったカフェバーは、
田舎者の私にとって食のテーマパークだった。
食欲すらなかった子ども時代を取り戻すかのように、
ジャンクなものも食べに食べた。

今になって思えば、発症する5年程前からSOSのサインはあった。
背中の重苦しい痛みや、時々続く微熱など。
けれど疲れているのかなといった程度で、やり過ごしていたのだ。  
肝臓は「無言の臓器」と言われるだけに、
私の肝臓も黙々と働き、不満を溜めに溜めて突然怒りだす女性のごとく、
「もう無理ですっ。」という時点で爆発的な激痛と高熱が始まった。
緊急入院、そして即、手術。
オペを終えた執刀医からは、
「あと一日病院に来るのが遅かったら死んでたよ。」
と苦笑いされたっけ。
この手術をきっかけに、山形へUターンして自宅療養が始まった。

退院する際、医師に言われたのが
「自己治癒力を高めてくださいね。」
という言葉だった。
薬や手術はあくまで手助けに過ぎず、
まずは自分の力を養うことが基本なのだと言う。
この病院は漢方薬も処方していて、
東洋医学の考え方に理解があったのかもしれない。
そうした関連の本などを読むようになり、
命を運ぶうえで大切なのは、食と心だと分かってきた。

例えば、身体と大地(環境)は一体であり、
自分が暮らす土地の食べ物を取り入れる「身土不二」の考え方。
「地産地消」の食生活が健康を作るのだ。

徐々に体も回復して、広告の制作会社に就職し、
山形の観光地や飲食店を取材させていただくようになった。
そこで発見したのが山形の食文化のすばらしさだ。

実は、いよいよ東京で何かを見つけるぞと
思っていた矢先に病気が再発したので、
内心ふてくされた気持ちもくすぶっていたのだけれど、
こんなにも食材と郷土料理のレシピがたくさんあって、
生産する方、料理する方が誠実で真剣で、
私はいままで山形の何を見てきたのだろうと反省したら、
がぜんこの土地が輝いてみえてきた。

出来る範囲で地物の食材と調味料を使い、
有機や無添加のものを選ぶ暮らしを実践した結果、
心が安定し、驚くほど元気になった。
10年以上風邪で病院に行ったこともなく、
私は山形の食に助けられたと思っている。

その恩返しと言っては何だけど、
『スローフード山形』という団体に参加しながら、
自分なりの活動を行っているところだ。  
2月20日~26日までは、
山形市のフォーラムで「未来の食卓」が上映される。
南フランスにあるバルジャック村の村長が、
学校給食をオーガニックにしようと試みたドキュメンタリーの食育ムービーだ。
食と地球環境を見直すきっかけづくりに、
ぜひご覧になってみてください。